日本人の脳幹に潜むもの
私達日本人が、日本人をどう思うのかは、年代によって大きく異なるようですね。
特に小学校時代にどんな先生が担任であったかでも異なりますね。
昨日の私のブログ記事の中で被災地の9歳の男の子のとった行動はありえないのではと疑問を抱いた方がいらっしゃったようですので、今回の記事は東日本大震災の時の日本人の行動を中国メディアを通して確認してみました。
(参考)昨日の私のブログ記事
日本人の血と遺伝子とは 2014/3/16(日)
9歳の男の子「ほかの多くの人が僕よりもっとおなかがすいているだろうから・・・」
以下は、中国メディアの報道より抜粋です。
以前、私のブログにも書いてありましたし、あるいは日本の新聞などで読んだこともあると思いますが改めて掲載します。
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宫城县女川町百名中国研修生受助生还
2011年03月16日
新华网日本宫城县女川町3月16日电 大?来时有大爱――宫城县女川町百名中国研修生受助生还
新华社记者马杰 ?华
“要不是这些当地人的?助,我们早就没了!”来自中国大连的研修生衣亚男和同伴们在宫城县女川町含着泪水感激道。(以下省略)
■日本人社員、20人の中国人研修生を助けて避難させた後、津波に呑み込まれて行方不明
2011年03月16日 11:12:48 新華社記者 馬傑 劉華
「地元の人々の助けがなければ、私たちはとっくに死んでいたでしょう」。
女川町は今回の大地震で人口約1万人のうち半数以上が今も行方不明。
町内は一面の廃墟と化し、海岸線にはいくつもの遺体が打ち寄せられた。
鉄道車両は津波で真っ二つとなり、レールから数十メートル離れた山に打ち付けられた。これほど深刻な被害を受けた女川町で約100人の中国人研修生が難を逃れることができた。多くの人は地元の人の助けにより九死に一生を得たという。
地震発生時、地面が激しく揺れた。佐藤水産株式会社の中国人研修生20人は宿舎付近の高台に避難した。まもなく、同社の佐藤充専務が「津波が来たぞ!」と叫びながら走って来て、彼女たちを連れてさらに高い場所にある神社へと避難した。
研修生を避難させた後、佐藤専務は妻と娘を探すため宿舎に戻った。しかし、宿舎はまもなく津波に呑まれ、佐藤専務はそれっきり戻ることは無かったという。
衣亜男さんは涙に咽びながら「佐藤専務は逃げ道がなくなり、屋上で右往左往しているうちに水に巻き込まれてしまいました。何度かは持ちこたえましたが、すぐに見えなくなってしまったのです」と語った。
研修生の張軍燕さんがデジタルカメラで撮影した映像には、命の恩人である佐藤さんが津波に呑まれるのを、「早く逃げて!」と泣き叫びながら見守るしかない女の子たちの姿が記録されていた。張軍燕さんによると、佐藤専務の妻と娘もまだ行方不明のままだという。
災害当日の夜は大雪となり、研修生たちは行き場が無かった。佐藤専務の兄、佐藤水産の佐藤仁社長は家族を失った悲しみに負けず、山の上に住む友人の家を一晩中かけて探し、そこに研究生を避難させてくれた。
岡青株式会社の社長と部長も中国人研修生を助けてくれたという。彼らは地震後すぐに車で5人の研修生を付近の山に運んだ。
大連出身の曹晶さんは「その夜、社長は私たちを山頂の温泉旅館に避難させてくれました。彼らはその時、自分のお子さんすら見つかっていなかったのです」と述べる。
状況が安定した後、彼女たちは現地で最大の避難所に連れて行かれ、数十人の中国人の仲間と合流したという。
避難所では、彼らは1日に2食から3食の食事が保証されている。情報が広まるに伴い、ますます多くの救援車両が到着し、補給も次第に足りてきた。
曹晶さんは「皆さんの助けが無ければ私たちは一体どうなっていたことか。想像することもできません」と述べる。時間との戦いとなる避難の中、地元の人々は全ての命を同様に扱い、尊重してくれた。研修生たちはこのことを一生忘れないだろう。
「人民網日本語版」2011年3月16日
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「途中、多くの日本人が助けてくれた」と当時の様子を振り返っている。
中国青年報が伝えた。
14日に無事帰国を果たした梁さん。
当時の緊迫した様子を中国青年報に語った。
震災当日は東北大学の図書館でレポートを書いていたという。
最初は数秒の揺れだったが、数分後に再び大きな揺れ。
「防災訓練を思い出し、すぐに机の下にもぐった」。
そのうち、揺れはどんどん大きくなり、机の位置が大きくずれ、床が棚から落ちてきた本で埋め尽くされた。「その時初めて、これは大変だと思った」という梁さん
それからさらに数分後、揺れが少し収まった時、警備員が駆け込んできてその場にいた人たちを避難通路に誘導した。建築が専門だという梁さんはその途中、柱に亀裂が入っていないことを確認し、安心したという。その時はまだ、落ち着いたら図書館に戻ってレポートの続きを書こうと悠長に構えていた。
学生たちはパニックになることもなく、落ち着いて広い駐車場に避難した。
ところが、しばらくすると講義棟3階の化学実験室から火の手があがる。
隣の林にまで燃え広がる勢いだ。
山肌をむき出しにした裏山からは小石が転げ落ちてくる。
その時、誰かが叫んだ。「山崩れが起きるぞ!」。
その日の夜7時頃、思いがけず在日留学生仲間から電話がかかって来た。それから思い立ったように何度も大連の実家に電話をかけ、2時間後にようやくつながった。
家族には「大丈夫だから」と伝えた。大学が自分たちの消息を尋ね回っていると聞き、心が温かくなった。だが、その後電話は2度とつながらなかった。
梁さんの頭の中はもう、「中国に帰ろう、家に帰ろう」でいっぱいだった。ちょうど14日の東京―大連便を予約してある。だが、当時仙台はほぼすべてのライフラインが寸断されていた。仙台から東京まではバスで6時間の距離。今から自転車で向かえば、14日の便に間に合うかもしれない―。
翌12日、梁さんは仙台を後にした。途中で道に迷ったが、通りがかりの年配の男性が丁寧に地図を書いてくれた。その地図は今でも大事にとってある。
夜は真っ暗だった。
自転車のわずかな灯りを頼りにひたすらペダルをこぎ続けた。
夜中の3時過ぎに福島市に到着。
電気が付いていたので安心し、夜明けまでしばしの休憩をとった。
それからさらに5時間こぎ続け、郡山市のバスターミナルに到着。
停車しているバスの中から東京行きを捜した。
一か八か、乗せてもらえるかどうか聞いてみた。
運転手は梁さんが被災者だと知ると、すぐに本部に聞いてみると言ってくれた。
その間も車内の乗客たちが運転手に「先に中に入れてあげて」と言いながら手招きしている。梁さんの疲れた様子を心配し、何人もの人がパンや紅茶、飴などを分けてくれた。年配の男性はほこりまみれの服をはたいてくれた。「頑張れ」という言葉が胸に響いた。
日本人はこんな時でも冷静で他人に対する優しさを忘れなかった。
東京もいつもと変わらない。
被災地のスーパーは売り物がすべて無料になっていた。
無事空港に着いた梁さんは大連の母親に電話をかけた。
驚いたことに国際電話も無料になっていた―。(翻訳・編集/NN)
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避難所の様子については、「学校の講堂や体育館、公民館などが避難所として利用され、家族ごとに毛布を敷いて生活しているようだ。ここ数日、雨が降り気温が下がったが、寝るときは薄い毛布1枚だけ。
食料は1日2回だけ支給される。大人が食べるのを我慢して、できるだけ子どもに食料を与えているある家族の様子を見て感動した」と話している。(翻訳・編集/HA)
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食料配給は日本人も中国人も平等、中国人研修生が震災時に知った日本人の暖かさ―中国紙
配信日時:2011年3月20日 19時55分
郭さんは、新京報の取材に対し、日本政府からの食料と水の配給が不足してどうにもならなかったとき、瓦礫のなかから食べ物を探して食べていたと話した。
「大きなスーパーがあって、(スーパー跡で)たくさんの袋詰めの食品が土砂の中に埋まっていたから、それを掘って、洗って食べた」という。
郭さんはまた、地震発生後、日本人も同じようにお腹がすいて喉が渇いていたはずなのに、私たちに野菜や食品をくれた人もいた、と語った。
取材中、ちょうど何人かの日本人が、中国人研修生に食品と水を届けていた。
郭さんによると彼らはスーパーのスタッフ。
「毎日私たちにも無料で食料を届けてくれる。日本人であろうと中国人であろうと、平等に配給される」という。(翻訳・編集/津野尾)
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<中国人が見た日本>日本人の態度は称賛に値する、震災でもマナー変わらず
配信日時:2011年3月19日 14時35分
2011年3月17日、日本事情を伝えているブロガー・黄文[火韋](ホアン・ウェンウェイ)氏は、ブログで記事「地震の中で見せた日本市民の態度は間違いなく称賛に値する」を発表した。以下はその内容。
震災の最中で日本人が見せた態度は間違いなく評価に値するだろう。
停電にも文句を言うことなく政府の指示に従っている。
スーパーに行けば「タマゴは1人1パックまで」の張り紙。ルールを破るものはいない。
売り手も地震につけこんで価格をつり上げるようなことはしない。
中には値下げしている店まであるほどだ。
銀行は通帳がなくとも免許証などでお金を引き出せるように決定。
自動車メーカーは自主的に操業を停止し、節電に努めている。
地震により被災地では多くの家屋が倒壊したが、堅固に作られた学校はびくともしなかった。避難所として使用されており、政府の救援物資が届けられている。
被災地のスーパーも営業を再開し、懐中電灯などの防災用品を販売した。
しかし値段をつり上げるようなことは一切ない。
被災者もちゃんと列を作り、自分の順番を待っている。
地震があっても日本人の習慣には一切変化がなかった。
バスを待つにしても、買い物にしても、ちゃんと列を作っている。
今回の地震は日本と日本人の秘密をあらわにするものとなった。
大地震に向き合う日本人の態度から、日本がどのような国なのかを知ることができる。(翻訳・編集/KT)
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日本人の団結力にも感心させられた。その反対に中国人の自己中心ぶりは情けない。日本人は四の五の言わず黙ってやるべきことをやるが、中国人はまず大々的にスローガンを打ち立ててからでないと動けない。
日本人は「冷静なオオカミ」、中国人は「やたらと動き回る羊」といったところか。
今回の震災が起こるまで、中国人はもう少しまともな民族だと思っていた。
筆者は決して外国崇拝者ではないが、今回ばかりは中国人と日本人の民度の差をまざまざと見せつけられた気がする。万が一、両国が再び戦火を交えることになったら…。我々は日本人に勝てるなどと思わない方が良いかもしれない。(翻訳・編集/NN)
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2011年3月14日、中国紙・広州日報は、大震災に遭っても秩序正しい日本人の姿に驚く中国人たちの声を紹介した。
「まるで無声映画を見ているようだった」―。
これはマイクロブログで報告された在日中国人の目撃談。
「東京。電車が不通となり、徒歩で帰宅する数百万人の人々。
みな黙々と列をなし、ひたすら前を目指す。
怒鳴り声など聞こえない。
自分は車だったが、誰もクラクションを鳴らしていなかった」
と日本人の冷静さに舌を巻く。
「数百人が広場に避難した。
タバコを吸う人はいない。
係員が走り回って毛布、お湯、ビスケットなどを配る。
すべての男性が女性を助けていた。
3時間後、その場は解散となったが、地面にはゴミ1つ落ちていなかった」
日本人はむやみに自分の悲しみを表に出さない。
他人に心配させたくないからだ。家族や友人を失っても、大声で泣きわめかない。
突然襲ってきた深い悲しみをただひたすら黙って受け止める。
助けてもらったら、「ありがとう」の代わりに「すみません」という人が多い。
これは「迷惑をかけて申し訳ない」という気持ちの表れだ。
「人様に迷惑をかけない」。
大震災のような生死に関わる状況下でも、日本人は秩序を崩さない。
被災者という立場にあって、個人は集団から離れず、集団も個人を守る。
規律を守ることこそが集団の利益を維持する最良の手段であると知っているのだ。
「日本人が見せた冷静と団結は震災の恐怖を和らげてくれた」とある中国人は絶賛していた。(翻訳・編集/NN)
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いかがでしたか?
日本人のこのような民族性は昨日今日身に付いたものではありませんね。
それは日本民族の脳幹に、そしてDNAに深く刻まれたものと思います。
それはいつの時代から?
つづく
⇒ 日本人の分かち合う心 2014/3/18(火)