私のルーツ探索(6)史料編・古文書④


今度の帰郷(2013年8月)で、一歩前進したのですが、でも、益々大きな壁を感じますね。我がルーツの場合、確かな文献となると最古で戦国時代が限度でしょうか。

(参考)
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書①』 2013.09.07
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書②』 2013.09.11
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書③』 2013.09.11


以下は、『私のルーツ探索(5)』の『古文書②』と『古文書③』から、時系列に官職を主に並べてみました。

関ヶ原の戦いでは、由利勢(渕名家も含む)は東方(徳川方)として西方(豊臣方)の会津上杉を攻めるも、西方の虚報で戦線離脱。領地没収の憂き目となります。

関ヶ原の戦いから20年後の元和九年(1623年)、国替えで常陸府中から六郷政乗が本荘藩に来るや、渕名氏は仕官。

改めて時系列に官職を分かり易く並べたのは、このようなハンディを背負った渕名家一族の仕官後の奮闘の記録が見えるからです。


以下、本題

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この本荘藩分限帳には、宝永四年(1707年)淵名忠兵衛から記録されています。
注)慶安三年(1650年)からの渕名一族の記録の一部は、高山家所蔵の分限帳に記録されています。
(参考)「私のルーツ(5)郷土史家の書く渕名家」 2013.09.16


この時、忠兵衛は御目付役。
忠兵衛の扶持高は、26俵から36俵に加増されます。

注)目付とは監視役。馬廻格の藩士より有能な人物が登用され、大目付家老の統括に置かれることが多い。上級役職者の監視や評定を行い、何事にも関与でき、位階は低いが権限は相当なもの。目付の同意なければ上級役職者は仕事にならない。配下に徒目付・歩行目付・横目などといった足軽徒士の戦果及び、勤務を監察する役職を置くことが一般的であった。


享保八年(1723年)淵名市之助は、中小姓(ちゅうごしょう)格に昇進にします。

注)中小姓とは、江戸時代、侍と足軽中間位置する下級武士について用いられた呼称身分的には侍の最下層に属し、幕府軍制においては徒歩将軍に従う歩行(かち)小姓組主だった者をいった。


安永八年(1779年)淵名弥市は、西目郷(現、由利本荘市西目町)の百姓達の連判訴状を認可したのはけしからんとして暇を出されます。
天明三年(1783年)には住居も召し上げられます。

寛政五年(1793年)淵名金次郎の弟(養子)盛義盗賊。
これを淵名金次郎は域外に追放し、謹慎

同年、五月御目付役就任
同年、九月、願い出て御目付役を退任


淵名久米吉

文化十三年(1816年)御用次第在番
文政九年(1826年)出石改。
同十一年(1828年)出石改退任。


注)御用次第在番とは、役人交替制で順番に公用勤務に当たること。
注)「出石」の意味不明だが、「出」は産出の意味か? 「石」とはコクで米穀を測る単位、「改」とは、調査・糾し役のこと。


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(参考)淵名孫三郎が西目潟開拓に着工したのが、文政十一年(1828年)
開拓完成まで6年を要した。

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文政十三年(1830年)御目付退任
天保三年(1832年)表士格被 召出、

注)御徒(おかち)とは、徒歩で戦う下級武士のこと。
徒士下士官に相当し、徒士士分に含まれる。
戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付勘定奉行の配下など)に従事した。


天保九年(1838年)西目郷潟新田退任

同十年(1839年)作事役就任
注)作事とは、普請建築など。

同十二年(1841年)中小姓に就任
注)中小姓とは、身分的には侍の最下層に属す。

弘化二年(1845年)勝手給人格に昇進
注)御勝手とは、台所のこと。
御給人とは、蔵米(くらまい)ではなく知行地与えられた武士


嘉永四年(1851年)徒士目付に就任

嘉永五年(1852年)作事役(奉行)を立派に努め退任
注)作事とは、普請・建築のこと。

同五年(1852年)徒士目付役、願の通り退任

安政四年(1857年)内越郷御代官に就任
注)代官とは、江戸時代幕府直轄地支配し、農政直接受けもつ地方官。

安政五年(1858年)中小姓格
安政五年(1858年)西目潟新田から年貢上納されたので代々中小姓家格となる。

安政七年(1860年)内越郷代官を立派に努めたので西目郷代官に転勤
文久元年(1861年)西目郷代官役を立派に務めたのでその職を解かれ、年収は二俵加増され26俵となる。


孫養子 淵名皐之助

文久三年(1863年)養父渕名孫三郎の禄高の内、24俵と中小姓格を相続。

明治元年(1868年)新政府参謀局の御達しにより、徳川脱走人護送の為、上京。
同二年(1869年)新井田御門勤番中、不埒(ふらち)な勤務の仕方で従軍務官に尋問を受ける。その他、能力が不足しており、厳重に注意をされるが、お情けで来月分の手当と叱責で済む。


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(私感) 昇降を繰り返しながら、祖母方の祖先は、必死に生きてきたのでしょうね。