見応えがあった秋田・亀田の天鷺村(あまさぎむら)

 
秋田県由利本荘市亀田の天鷺村に行きました。
あるものを直接見るために。
 
ここ、なかなかのものでしたよ。
但し、詳しい説明は、時間が無いのでカット。
 
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この二枚は、入門したら貰える施設内パンフレット。
 
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これが入り口。
 
左の石垣が天守閣。
 
 
 
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これが江戸時代の炊事場。
 
懐かしいですね。
このスタイルは、私の幼少時代の農家のかまど。
 
破産することを『かまけした』と言いましたね。
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ここのお上さんのように、四六時中、着物姿に正座が私の祖母ユウであったとのこと。

(註)
私のルーツ探索(1) 祖母渕名家①
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そういえば、苗字が『鵜沼』(うぬま)って、中学時代、同級生の女の子がいましたね。
 
 
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女性は内職で機を織っていたのですね。
 
 
 
 
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天守閣から西北西を見やると画像左上に日本海が観える。
 
 
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これは西方向。
 
館内の売店の女性が言っていましたが『雪景色が殊更美しい!』と。
 
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この天守閣にはエレベーターが無いから脚や心臓の悪い人はごゆっくりお登りください。
 
 
 
 
 
 
指図通りの経路で、この天守閣が最後でした。
ここに来た値打ちは充分にありましたね。
息子と二人で感嘆しました。
 
 
そうそう、
肝心な写真を載せるのが最後になりました。
この鬼瓦を見るのが今回のここを訪問した目的でした。

(追記)赤瓦は仏教とともに伝来し、元は寺社仏閣で使用されていた。表面には酸化鉄を塗布。暗赤褐色乃至茶褐色である。近代に入ってからは鉄にマンガン等の添加剤を加えることにより銀ねずみ色の瓦が登場する。
 
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この瓦の説明文
 
嘉永五年(1852)八代藩主岩城隆喜の時、幕府から善政を認められて亀田陣屋が城主格に昇格した。その折、家臣たちが三間四間の大手門をつくり贈ったと伝わる。鬼瓦は、越前鬼瓦で敦賀平八作である』

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追記
平八鬼瓦に関しての詳細

(註) 2016.05.04 敦賀平八は由利本荘市石脇三軒町の出身
この鬼瓦を作った敦賀平八は石脇の人(現、由利本荘市石脇)。越前で瓦を焼く修行を終えた後、石脇三軒町で瓦製造を始める。

平八の技術は高く評価され、能登から土を船で運んで石脇で瓦を焼き、越前(福井県)に瓦を販売。この界隈は平八一族の三軒が製造・販売・輸送(北前船・廻船問屋)を各々分担・繁栄し、最盛期には蔵が50棟も建っていた。

拠って、ここを三軒町と称した。この平八瓦については、福井県が調査した記録と見解本『粘土瓦の起源と変遷』に掲載されている。

(追記)その他、越前瓦についての論文
①『福井考古学会会誌 第7号 斎藤優先生追悼号』(1989年5月)
②『秋田県立博物館研究報告 第5号』「秋田沿岸における日本海的人文要素についてー新しい秋田の地域研究のためにー」(1980年 秋田県立博物館)
③『日本海歴史体系 第四巻  近代編Ⅰ』 清文堂2005年9月
この本を数年前に由利本荘市教育委員会が購入したはずである。

(註)2016.05.31 平八鬼瓦一族は廻船問屋へと発展
上記の平八一族の繁栄には瓦に付随したもうひとつの理由があった。

平八は北陸で瓦の修行後、石脇で瓦屋を創業。帆かけ船で能登から瓦用の大量の粘土を石脇まで運んで石脇で瓦を焼くのだが、石脇から能登へは焼いた瓦の一部だけでは軽すぎて航海中転覆の恐れがある。

そこで瓦と一緒に地元の特産物を船に積んで能登で販売。これが発展して廻船問屋となり、日本海を南下し瀬戸内海を回り大坂まで特産物を運び販売。

大坂からの帰路では関西の特産物を船積みし、日本海各港で荷揚げし販売した。瓦屋の北前船である。

冬季、日本海が荒れるので船は大坂や兵庫の港で陸揚げ係留し、板で囲んだので『囲船』(かこいぶね)と呼ばれた。尚、この時に船の補修もした。船の耐用年数は6年が限度である。

船員たちは陸路で石脇に帰り、春先に再び徒歩でやってきて出帆(しゅっぽん)した。尚、平八一族の船主は船の補修・監視で冬季間大坂に滞在。この時、大坂で流行していた歌舞伎にぞっこん惚れ込む。

江戸時代初期から明治時代まで後継者たちの代々の名前が歌舞伎役者の名前(菊五郎・吉太郎等)と同じなのはこれによる。

このあまさぎ村に展示されている鬼瓦は、岩城町岩城氏奥室の平八鬼瓦である。福井県立歴史資料館の瓦調査職員と当時京大大学院教授久保智康は、秋田県由利本荘エリアで越前瓦の調査をしている。

(追記)久保智康氏の論文など一覧
朝日新聞京都国立博物館名誉館員 久保 智康さん

調査先は、秋田県岩城町亀田 加藤三男家平八鬼瓦 秋田県仁賀保町三森 高昌寺平八鬼瓦、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)平八鬼瓦である。

(訂正)由利本荘市矢島内川・金刀比羅神社の平八鬼瓦と記入しましたが、2018/8/24に現地調査をしたところ、ここ矢島内川の金毘羅神社ではなく、旧本荘市内にかってあった金毘羅神社であることが判明。但し、この神社は今は無い。

鬼瓦を見に矢島への峠越へ 2018/8/20(月)

福井県で高評価されている平八の鬼瓦の資料が岩城町(現、由利本荘市)に皆無に近い理由の一つには、1884年明治17年)6月4日、石脇町で260戸が焼ける大火で廻船問屋&瓦屋平八一族の50棟もあった蔵の内、48棟までが焼け、無論、古文書なども焼失したであろう。

二つ目は、この石脇の大火から5年後、鉄道や定期航路の蒸気船の登場で時代遅れとなった平八一族本家は、廻船問屋兼瓦屋を廃業し質屋に転業。この時、それまでの古文書などは廃棄したであろう。

三つ目は、平八一族の菩提寺である長禅寺の過去帳は火事で焼失したという。但し、長禅寺は明治時代から昭和40年代の期間に火災で焼けたとの記録はない。いつのことを言っているのだろうか。

尚、今の住職は三代目で、それ以前の住職とは何等つながりはない。拠って、明治時代も含むそれ以前のことに関しては全く知らないとの由。但し、明治5年の壬申戸籍には1600年の関ヶ原以降の歴代の平八一族の戸主の名前が連なれられている。(註)このことは、明治5年の壬申戸籍作成当時、この菩提寺過去帳は焼失していなかったことを意味す。

明治時代初期、石脇三軒町での三軒とは、○○平八、○○吉太郎、○○佐助、であり、この三軒が軒を連ね、技術・製造・販売の三位一体を為していたと言える。下記の画像は、平八本家の墓石の土台。『屋号○にイ』が彫られている。

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もう一軒の屋号は、下の画像のヤマサ醤油でお馴染みの、『傘の形』をした『やま(山)』なのだが、この傘の中に入っている文字を忘れる。残り一軒の屋号は、イラスト的漢字一文字なのだが、これも忘れてしまった。
(追記:私見福井県の調査記録と見解本『粘土瓦の起源と変遷』や福井県の考古学者並びに歴史資料館の歴史研究職員たちの論文を読むと、『平八』の苗字を『村井』と述べている。これは明らかな誤りである。

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下記の鬼瓦に刻印された一種のシンボルマークを上記のように『村』と解している。

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最初の文字のみが草書体で残る三文字は楷書体。拠って、最初の文字を『村』と読むこと自体誤りである。『村』と読ませるのだったら全部楷書のはずである。

それに彼らが『村』と読む漢字の右上に大きく離れた所の『ゝ』(赤い◎で囲んだ点)は何を意味するかを福井の歴史調査担当者たちは説明していない。尚、この文字をどう読むのかは私が解明した持論がある。無論、3~4年前、彼ら教授や県の調査員に持論をメールで述べているが回答はいまだに無い。

(追記1)2016.09.19
2011年11月9日から着手したこの字の私なりの研究での2013年位月に出した結論は『花押』(かおう)である。

(参考)

(追記2)
由利本荘市資料より『石脇のにぎわい』より一部抜粋

安政2年(1855)の「東講商人鑑」によれば、石脇には6軒の廻船問屋と、本荘と同様に一軒の同講の商人定宿がありました。これは石脇が日本海交易の有力な湊として、加えて商人たちが頻繁に往来する町場として、当時広く認められていたことを示しています。

 また石脇は上町・新町・中町・三軒町の四か町から成立っていて、約1000人が居住する(『史料編Ⅲ』466頁)、人口集住度の高い地域でした。「筆満加勢」の著者で芸人の藤原衆秀を「お座敷」に呼んで遊宴を催したという記述も見え、同所には湊町によく見られた遊郭「吾妻屋」も存在していたようです(『文化・民俗編』296~7頁)。

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 後、 ここから西目駅近くの公園へ走りました。

 ⇒ 私のルーツ探索(2)
全校生徒が演じる渕名孫三郎とは (西目小学校)

注1)時間が無く、亀田城佐藤八十八美術館には寄りませんでした。
 
注2)天鷺村公式サイト
私見)ホームページをもっと充実すべきですね。



※ この鬼瓦に関しては、まだまだ情報不足ですので、これまでの検討内容に関しては公開しておりません。解明次第順次公開します。
鬼瓦の銘文解読一考

 
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