電力会社の買収に応じない大学教授は干される実例

 
私、これまでTVに度々登場する安斎育郎教授 のことを誤解していましたね。
 
安斎育郎教授の論文 
原発事故をどう受けとめるか?―次世代への謝罪と期待をこめて―」
 
これを読みましたら、この国の異常さの原因が分かるでしょう。
 
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(全文)
 
(安斎教授研究室サイト)
 
 
 
以下、この論文の一部を抜粋。
 
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安斎育郎
(プロフィール)1940年、東京で9人兄弟の末子として生まれる。東大工学部原子力工学科卒、工学博士。1969年に東大医学部助手、1986年、立命館大学経済学部教授、88年、国際関係学部教授。1995年より、国際平和ミュージアム館長。現在、名誉館長。2011年4月、安斎科学・平和事務所を開設。
 
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アメリカで最初の商業用原子力発電所シッピングポート原発が運転を開始する前年の1957年3月、「大型原子力発電所の大事故の理論的可能性と影響」と題する報告書(WASH740)が出され、最悪の原発事故の場合、3400人の死者が出る恐れがあり、放射能による土地の汚染の損害は最大70億ドルに達する可能性がることを示唆した。
 
70億ドルは当時の換算レートで約2兆5000億円にあたり、日本の国家予算の約2倍に相当した。 (注)今でしたら、200兆円弱ですね。
 
このままでは到底電力企業の参入が不可能だと考えたアメリカ政府は、同年9月、「プライス・アンダーソン法」を制定し、原発事故に伴う電力会社の損害賠償負担を軽減する法的措置をとった。
 
この法律によれば、電力会社の賠償責任の上限は102億ドルで、それを超えた場合には大統領が議会に提出する補償計画に基づいて、必要な措置をとることとした。
 
4年後の1961年、日本の原子力損害賠償補償法がつくられ、同じ道筋を歩んでいくことになる。
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先に述べた通り、1961年、日本も原子力損害賠償補償制度をつくり、原発事故によって50億円以上の損害が出た場合には国が援助する体制をつくった
 
限度額は2009年に改定され、1200億円に引き上げられたが、「異常に巨大な天災地変」による事故の場合には電力会社は免責される
 
今次福島原発事故の損害も何十兆円かに及ぶに相違なく、原子力発電は事故時の損害賠償や高レベル放射性廃棄物10万年にも及び得る保管廃棄費用などを考慮すれば、とても一企業の手に負えるものではない。
 
電力企業にとっては国家の庇護の下ではじめて事業として成り立ち得るものであり、原発はもともと国家と電力企業の共同を前提とせざるを得ない
 
しかし、やがて、それが電源3法(電源開発促進税法、特別会計に関する法律〈旧・電源開発促進対策特別会計法〉、発電用施設周辺地域整備法)による特別交付金制度によって地方自治体を原発誘致に駆り立て、地域住民を原発推進のために組織することによって「原発促進翼賛体制」が築かれていくに及び、この国の原発開発は、極めて頑迷固陋で不寛容な「原子力ムラ」を築いていったように思う。以下、筆者の体験を綴る。
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最も驚いたことは、一人の婦人代表が、「放射能恐れずに足らず」という認識を主張するために、その年の高校野球広島商業が優勝したことを引き合いに出したことだった。
 
原爆が投下された広島の高校球児が、福島代表の双葉高校を1回戦12対0で破った上、その後も勝ち進んで全国制覇を遂げたのだから、「原爆放射能恐れるに足らず」という訳だ。
 
「国防婦人会」の再来かと思わせたこの演説を、筆者は、「このような非科学的な主張で原発の安全性が演出されていくのか」と、「悲憤」を覚えたことを記憶している。
 
今回事故が発生した福島第1原発がある福島県双葉郡には、「明日の双葉地方をひらく会」が組織され、「われわれの“力”で原発建設を促進し、豊かな双葉地方を開いてゆこう」「原子力開発に協力し、エネルギー危機を乗切ろう」などというポスターを掲げた。
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この頃、私は、1974年1月に暴露された「財団法人・日本分析化学研究所」による米原潜寄港に関する海水や海底土の放射能汚染データ捏造事件や、同年9月の原子力船「むつ」洋上試験航海放射線もれ事件についても批判的な活動に取り組み、国会に何度か参考人として呼ばれていた。
 
原子力放射能分野での国政がらみの問題に活発に関わっていたから、かなりの「厄介者」だったのだろう。1973年から1979年3月28日のスリーマイル原発事故の時期にかけて、ネグレクト・差別・監視・恫喝・嫌がらせ・懐柔などさまざまなハラスメントを体験した。
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東大医学部の研究室では「安斎を干す」という教授方針が教室員に示されたことが人づてに聞こえてきた。
 
教育業務から外され、研究発表は教授の許可制を申し渡された(研究成果の発表は固有の権利だから、これは無視した)。大学院生が筆者の研究上の示唆を求めたい場合は、勤務が果てた後、大学周辺の旅館や飲食店で行なった。
 
放射線事故などについて筆者の見解が週刊誌などに掲載されると、文献抄読会の席で罵倒された
 
講演に行けば電力会社の「安斎番」が尾行し、講演内容を録音して報告する体制ができていたし、研究室の隣席には、筆者の言動に関する諜報活動を行なうために電力会社から研修生が派遣されていた
 
筆者の共同研究者が研究室を訪れると、露骨な嫌がらせを言われて早々に追い出されたりした
 
筆者は放射線防護の専門学会では若手研究者の支持を得て理事に選ばれ、70年代半ばには「庶務理事兼事務局長」も務めた。
 
当時の学会会長は黒川良康・動力炉核燃料開発事業団安全管理室長だったが、『原子力工業』誌には、「会長が推進派で、庶務理事が反対派で大丈夫か」といった編集後記が書かれた。
 
理事会の帰り東京電力所属の理事に飲食店に誘われ、「費用は全部保証するから3年ばかりアメリカに留学してくれないか」という懐柔策を提起されたこともあった。
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私はどの程度に敵対視されていたのか。


その頃、川崎敬三氏が司会をするテレビ朝日アフタヌーンショーがあったが、ある時、地域社会を原発誘致に誘う上で決定的な役割を果たした「電源3法」生みの親・田中角栄首相の出身地である新潟県柏崎・刈羽原発の地域住民と、森山欣司・科学技術庁長官が対話する企画があり、筆者にも出演依頼があった。
 
しかし、本番前日、「相手が安斎なら私は出演しない」と森山氏が言っているという理由で出演辞退を懇請された筆者は科学技術庁長官に嫌悪される存在だった。

1975年に開かれた東大工学部原子力工学科の創設15周年のパーティには出席する立場になかったが、後日主任教授から聞かされたところでは、科学技術庁筋の来賓から、「原子力工学科は多くの有為の人材を送り出してきた点で高く評価されるが、安斎を生み出した点では功罪半ばだ」という趣旨の挨拶があったという。
 
君は国からその程度に敵視されていることを自覚して振舞え」という警告だったのだろうが、もしもこの話が本当なら、筆者はその程度に「高く」評価されていたということになる。

批判者を垣根の向こうに追いやって、自由にものを言わせないばかりか、日常的に不快な思いを体験させ、「改心」や「屈服」を迫る
 
こうした反人権的な構造的・文化的暴力は、自由な批判精神の発露の上に行きつ戻りつしながら安全性を一歩一歩培っていく技術開発思想とは対極のものだろう。
 
自由にものを言わせないこの国の原発開発が安全である筈がない」ことを、筆者は肌で感じていた。
 
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アメリカの対日戦略の延長線上で国家が電力資本と結合して「原子力ムラ」の骨格が形成され、実証性を欠いた原子力技術の「安全性」を権威づけるために「原発推進姿勢の専門家」や「異を唱えない専門家」が役割を果たし、電源開発促進税法によって電力消費者から徴収した財源による特別交付金をエサに地方自治体が誘致に駆り立てられ、マスコミが批判機能を十分果たせずに「安全で安価で地球に優しい原発」を演出する役割を担って「安全・安価神話」を作り出し、「豊かな地域づくり」を表看板に住民たちまで推進派として組織されてきた。
 
それによって「原発推進総動員・翼賛体制」とでも呼ぶべき巨大な「原子力ムラ」が築かれた一方、批判者は抑圧して「ムラ」から放逐し、その言い分を一顧だにしないこれが、この国の原発政策を「緊張感を欠いた独善的慢心」に陥れ、破局に向かって走らせた背景にあったと感じている。
 
私たちは原発の恩恵に浴し、電力の約3分の1を原子力発電に依存してきた。その結果、今後数万年に渡って管理していかなければならない
 
しかも何の価値も生み出さない膨大な高レベル放射性廃棄物を蓄積し、続く何十・何百世代に同意もなく委ねるという「愚」を犯してしまった
 
目の前の原発事故の実態に目を向けるだけでなく、これからの平和で安全な社会建設のために、青年たちには"Think Globally, Act Locally"(地球的規模で考え、地域から行動する)姿勢を忘れずに、問題を等身大に引きつけて、出来ることは何でも実践して欲しいと念じている
 
 
その他参考)
ドキュメンタリー映画バベルの塔』より
安斎育郎先生の「放射線 癌当たりくじ」論を抜粋