初秋の大沢の池と名古曽(なこそ)の滝

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今回大覚寺大沢池を訪れましたのは、「名古曽(なこそ)の滝跡」(国名勝)を写真に撮るためです。

と言いますのは、今春の桜の時期に来た時に写した写真の内、CDに入れたこの池の北の「名古曽の滝跡」の写真が再生不能となったからです。


(写真の中央左が「心経宝塔(多宝塔)」、右端の奥が「名古曽の滝跡」)


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尚、大沢池では『宵弘法(万灯会)』と『観月の夕べ』が今年も催されました。




(写真左は、勅使門の塀に咲く彼岸花。写真右は、梅の園の中で咲く彼岸花



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さて、写真は「名古曽の滝跡」です。ここは、和歌で有名になった滝跡ですね。



その和歌とは

「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」

          (大納言公任)藤原公任 百人一首55番・千載集



解釈)滝の音は途絶えてから長い年月が経つけれども、その名は今に流れ伝わって、なお名声を保っています。私も、のちの世に詠み継がれる歌を創りたいものです。




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拾遺集のこの和歌の詞書には「大覚寺に人あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける」とあります

嵯峨天皇離宮にされた大覚寺の庭に滝殿が造営されたのは、歌人藤原公任の時代からでも約百五十年前のことですので、歌人藤原公任が訪れた時の滝は既に枯れていたのですね。



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処が、この歌が有名になったことでこの枯れ滝は「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになり、そしてこの歌と彼の名前は有名になり、今日まで詠み継がれているのです。面白いことですね。



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尚、百人一首で「名」を採り上げている歌はこの歌の他に四つあります。



「名にし負(お)はば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 
       人に知られで くるよしもがな」

                  三条右大臣(25番) 『後撰集』恋・701



「恋すてふ(ちょう) わが名はまだき 立ちにけり
       人知れずこそ 思ひそめしか」

                  壬生忠見(41番) 『拾遺集』恋一・621


「恨みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを
       恋(こひ)に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」

                  相模(65番) 『後拾遺集』恋・815


「春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に
       かひなく立たむ 名こそ惜しけれ」

                   周防内侍(67番) 『千載集』雑・961





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尚、「名」については、万葉の時代には山上憶良が詠っています。


「をのこやも むなしかるべき万世に 語り継ぐべき名は立てずして」(巻第六・雑歌・九七八)



最後に、大沢の池の紀友則の歌


「ひともとと 思ひし花をおほさわの 池のそこにもたれかうゑけん」(紀友則 古今集



             11月中旬は、どんな紅葉風景でしょうか楽しみですね。

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