さすがは栗田騎手の息子

私の履歴書・87

《栗田騎手の息子》

増井(浅井)のばあちゃんのたこ焼き屋に、競馬の大レースの時だけ来る騎手の息子がいました。父は著名な京都の栗田騎手。息子は無論平安高校生。家は淀。

大レースの都度、午後一時以降に来て、軸馬一頭と紐二頭を教えてくれるのです。
それが、毎度、必ず的中!

当初は皆、それから祇園の場外馬券売り場に駆けつけたのですが、混んで混んでいつも時間切れ。一時間位並んだだけでは買えなかったとのことでした。毎回、まともに買えないから皆諦め。

処が、平安高校生の一人だけが、或るレースで祇園場外の雑踏に突撃し、買えたのです。どのようにして東京の埼京線のラッシュよりひどい混雑を突破したのかは、想像に難くないですね。

払戻金は確か3千7百円。それを一万円ですから37万円ゲット。当時としては大金でした。尚、栗田騎手の息子は、武豊や福永のように、二世騎手にはなれなかったです。身長と体重の問題で。

(追記)増井のばあちゃんの写真と若宮のたこ焼き屋の場所は下記URL。
私の履歴書・86 春夏甲子園・鉄人衣笠の思い出
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/53932611.html


競艇選手になれなかった男》

当時の私達は、競馬をする者を卑下していました。最後の直線で、大外からドドドォ~!て最後尾から一気に追い抜く姿は、負け犬が好む姿。

その点、競艇は最初から頭なら、最後まで頭。つまり強者の姿。

眠り狂四郎と言われた運転手の13歳年下の弟・岸田常雄君(仮称)が、丹後の高校を卒業したものの目指す会社に入れず、ここ工務店にアルバイトでやって来ました。

我等5人の琵琶湖競艇組にとっては絶好の餌食。
我等は昼夜を問わず、毎日競艇学校に入るように口説きました。

その甲斐あって彼は試験を受け見事合格。下関の競艇学校寄宿舎に入りました。
それから半年後、帰宅しましたら常雄君がニコニコしながら座っているではありませんか。

「休暇か?」
「辞めてきた!」
「ナニッ? 辞めたと!アホかおまえは!」
「痔ろうになって舟には乗れなくなった!」
「根性無いやっちゃ!おまえは!」

それから一ヶ月間の毎日と思い出す都度、常雄君は我等に小突かれました。
我等の無念さはそれはそれは甚大なものでした。

イメージ 1
尚、競艇のボートに乗る場合、膝を折ってペタリと船底に座ります。
ですから小さな波ででも、底板がドンドンとお尻を打ち続けます。
痔が出来やすい体質の人には不適合ですね。

写真の津田裕絵(ヒロエ 21歳)選手は、痔にならない体質の顔をしています。昨年三月、競艇学校を卒業しデビュー。昨年の勝率5.70%・連率36%。山口支部所属。