音大に行った真由子嬢

私の履歴書・35〈中学時代ー8〉

真由子嬢のその後をお話しておきたいと思います。

中学1年のその後の真由子嬢に係わる記憶は、夏休みの本荘浜で泳ぐ真由子嬢と数度会った事。それに、将来の自分のしたい事での発表では、一番に挙手をして「『由利の原』(鳥海山麓に広がる高原)を開墾したい」と言ましたね。立って私の方をチラリと見ながら。これしか思い出せないのです。

そして、中学二年生になるのです。この時は、クラスも担任もそのまま持ち上がり。つまり、真由子嬢と再度同じクラスなのです。

私は、二年になる早々、自ら志願して学級新聞委員になりました。男二人、女性二人だったと思います。放課後、教室で、いつも四人で、あれやこれやとお喋りでしたね。月二回発行の新聞の名前を「窓」として、ガリ版刷りで一号を発行。

それから間も無く、真由子嬢が新聞委員に入れて欲しいと言って来ました。不思議でしたね。彼女は、合唱部に入っていて、更に自宅でピアノと歌の個人レッスンがあったはずですからね。

新聞委員では、おとなしかったです。私達だけは、時々、遅くまで教室にいましたので、その時は、彼女の弟が学校の何百メートル坂の下まで迎えに来ていました。

下校の坂の途中では、五人で夕闇の中、ぶらぶらと歩きながらのお喋り。彼女は、1年の春の紙飛行機事件の話しを何度か持ち出しましたね。「初めて、人に叩かれた!」とその都度、私に向かって笑顔で言っていました。


三年生になりまして、クラス分けとなり、私は三組、彼女は五組にと分かれました。
処が、新学期が始まって間も無くだったと思いますが、彼女は、登校して来ませんでした。
最初は、東京の学校に転校したと言う噂。東京の病院に入院したとの噂もありましたね。


処が、それから一年後、地元の高校に入学初日、同じクラスに彼女がいるではありませんか。驚きましたね。東京で入院していたそうです。

座席は通路をはさんで私の二つ上。私は、授業中でも、通路を挟んで一つ下の席のある女性とお喋りに夢中でしたから、彼女と改めてゆっくり話した事はありませんでした。

ぐっとおしとやかになった彼女。何となく、伏し目がちでした。一年間の入院にも係わらず、国語の模試は学年一番でした。流石です。


処が、処が、1年が終わった春休み、再度、彼女は、消えたのです。
東京の女子高に転校したとの噂でした。本当は、病気が再発したのかもしれません。

その後、彼女の噂を聞いたのは、大学に入っての最初の夏休みのクラス会でしたね。
国立音楽大学に入学したとの由。彼女は、ソプラノでした。それ以降は分かりません。


      



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