野生児の馬友と有名人

私の履歴書・29〈中学時代ー2〉

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昭和33年入学の中学一年生の総員は376名で七クラス。私のクラスは53名。

担任は、卒業生に評判が良いとの噂の男性・武宮先生(仮称)。
短い長方形っぽい顔にぎょろりの目。頭髪は産毛程度。

入学式が終わってからの数日は、知っている人は無論皆無でしたし、緊張していましたね。

〈最初の友達〉
入学式が終わって早々の夜に半鐘が鳴りました。
尚、この年の春の夜、何故か駅の南西地区はしょっちゅう火事。

私、夜中に、サイレンや半鐘が鳴ったら、じっとしているわけがないのです。
何時であろうと、こっそりと家を抜け出し、火事現場に駆けつけました。

そして、燃えている隣の家の二階の屋根に上って火事見物。
「火が裏手に回ったぞ~~!!」等と屋根の上から消防員に怒鳴り声で知らせるのです。

ある火事現場で、屋根の上でふと横を見ますと、見たことのある顔。
同じクラスの雄君(仮称)。お互いに消防の水を浴び、顔から水がしたたる者同士。

直ぐに仲良くなりました。本能的にお互いに野生児と直感しましたからね。
雄君の家は、珍しくも、街の中で馬を飼っていたのです。

その馬に二人で乗るのですが、鞍はありません。麻の袋を上に一枚乗せただけ。
この裸馬に二人乗りして、街中を飛ばしました。

当然、馬は大汗をかくのですが、その汗を、これまた当然に馬をまたいでいるズボンが吸収。
つまり、馬のにおいがズボンに付くのです。これは、洗っても、洗っても、なかなか落ちません。

ローテーションで学校にはいていくズボンが、これになった時は最悪でしたね。
教室の席に座っていると、プ~ンとにおうのです。

そこで、こっそり病院等で使う消毒薬のクレゾールを買い、そのズボンを漬けたのです。
それで、馬の臭気は消えましたが、今度は、クレゾールの臭気。

「悩みは尽きないね 生きているんだもの」とは相田みつをさんの言葉。

だから、街中を、馬でかっ歩するのは、二回で止めました。


〈実は有名人?)
入学してから数日後、私を探しに、他のクラスの人が訪ねて来ました。
そして私の顔を見るなり「オ~!君が冬樹君(私:仮称)か!」とだけ言って去って行きました。

その後、休み時間の都度、何人かが連れ添って廊下から私を指差して去って行きました。
時には十数人の時もありました。これが一週間は続いたと思います。

当初は、見たことの無い顔の田舎もんを珍しがってか?それとも、小学校の時の悪事が、もう、知れ渡ったのかと思い、益々緊張しましたね。ばれたのはあの事かな?それとも、あの時のことかな?

間も無くその疑問は解明しました。小学校の時、野生児の描いた絵は、数度、全県の小学校を回りましたし、秋田市の木内百貨店の主催する写生大会では受賞し百貨店のギャラリーに貼られていましたからね。

それに、小学館発行の「小学○年生」という月間雑誌に絵や作文・習字を投稿し、時々掲載されていましたからね。野生児本人の知らない間に名前だけは知れ渡っていたのです。

間も無く、他のクラスの人達と廊下ですれ違ったら、小さく手を振り合いましたね。
これを契機として、学校でも、のびのびした?本来の私に戻れました。


       (写真は、当時の本荘中学校・卒業アルバムより)    続く




参考)1960年(昭和35年)4月1日 生徒急増により南中学校を新設し、本荘中学校は北中学校と改称する。つまり、私が中学3年になった時、本荘中学校から本荘北中学校に改称。