徳田秋声が『仮装人物』で描いた本荘

私の履歴書・28〈中学時代ー1〉

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昭和33年(1958)四月、子吉川に架かる由利橋を、高下駄(たかげた)でカランコロンと渡ると石脇町。
更に15度の上り坂200m程を登った新山公園の中腹にあるのが本荘中学校でした。

入学式の日、掲示板で自分の名前を見つけ教室に入って間も無く、体育館で入学式です。
壇上で、菅谷校長先生が祝辞の最後に、こう付け足しました。

「この壇上にあるグランドピアノは、○○株式会社から先日寄贈された物です」
皆、さあ~っと、こちらの方を向きました。そして、皆の眼差しは、私の隣に立っている同じクラスの女の子へ。

彼女の丸いほをは、紅くなるも、きりりとした眼差しで前を向いていました。
その時、私は、うれしかったですね。いかにも、町の子らしい垢抜けたこのお上品な、しかも賢そうな女の子と同じクラスになった事がですよ。

ところが、この丸ぽちゃの社長令嬢さんと同じクラスになったことから、私の波乱の中学時代となるのです。


尚、このお嬢さん「真由子(仮称)」さんは、恐らく、今は、亡くなっているものと思われます。
1年前(2006年)と今年の春に、何故か、突然、夢に現れたからです。それまでの数十年間、思い出した事も無かったですからね。

追記)2010.12.29
その後、真由子さんの弟の経営する会社に電話をしましたら、真由子さんは東京で元気にお仕事をしているとのことでした。


(写真は、三十年前の由利橋)

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さて、その前に、本荘出身の女流作家「山田順子(ゆきこ)」を若干紹介してから前に進もうと思います。

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明治34年、順子(ゆきこ)は、本荘の廻船問屋山田古雪の長女として生まれました。県立秋田高等女学校(秋田北高校)を卒業。(写真)
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大正9年(1920)に東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚し、小樽に住んでいました。
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13年(1924)3月に夫や子供を捨てて小説家を目指して上京し、原稿を持って徳田秋声の家を訪れました。
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(参考)この1924年は大阪・堺で生まれた与謝野晶子が東京に渡った時です。
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徳田秋声(とくだしゅうせい)」を始め、「菊池寛」・「久米正雄」が序文を書き、翌年出版された『流るるままに』の装丁を担当したのが叙情的な挿絵(さしえ)で有名な「竹久夢二(たけひさゆめじ)」でした。

この小説が出版されると、当時の読売新聞は「日本のノラ現る」という見出しで作者を紹介しています。

夫や子供を捨てて、文壇に挑戦した勇気ある女性の出現は、自由恋愛・自由結婚が声高に叫ばれたこの時代を代表するものでした。

「古屋信子」は『自叙伝的女流文壇史』の中で、順子(ゆきこ)の美貌について、『築地明石町』の明治の美女の立姿を彷彿(ほうふつ)とする」と述べています。

(参考)徳田秋声は「爪ざね顔の浮世絵風の美人の順子に魅せられた」と書いている。


そして、出版の翌十四年五月、大正ロマンの画家「竹久夢二」と同居し、本荘へ案内しています。
更に翌年、当時の文壇の大家「徳田秋声」と同居し、秋声は本荘に二回も来ています。

その様子は、秋声の自然主義文学の傑作と高評を得た『仮装人物』に、順子は葉子として登場し、彼女を「人間的な純粋さを持った野生の女」として描くと共に、本荘の自然や古雪かいわいを描写しています。

尚、順子の晩年は、仏教に帰依。鎌倉に住みました。

「鎌倉の桜は、病(わずら)って見に行けぬ間に散ってしまいました。窓先の桜でガマン----。」

                  (本荘・市政だより2002.03より一部抜粋)


参考資料)

竹久夢二山田順子とのゴシップ記事(大正14年6月10日掲載:読売新聞)

竹久夢二さんは拾年同棲の夫人と別れて、女流作家山田順子さんと同居してちらほら噂の種蒔きをやつている。(中略)夢二氏の夫人は手切金とかを貰つて山中温泉への逃避行をやつているよし。
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/topics/topi17.htm





尚、下記小説の六に、徳田秋声が、本荘の様子を書いています。
もしも、お読みになるのでしたら、大変読み難いので、ワードを開いておいて、そこに一旦コピーし、読み易い様に行間を空けましたら、普通に読むことが出来ます。

徳田秋声著「仮装人物」(青空文庫)※無料でこの小説を読めます
本荘の田舎町の情景は、この小説の(六)に書かれてあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/1699_46893.html
尚、本は岩波文庫で693円です。

「仮装人物」一部抜粋
(六)雪国らしい侘(わび)しさの海岸のこの町のなかでも、雪の里といわれるその辺一帯は、鉄道の敷けない前の船着場として栄えていたころの名残(なごり)を留(とど)めているだけに、今はどこにそんな家があるのか解(わか)らない遊女屋の微(かす)かな太鼓の音などが、相当歩きでのある明るい町の方へ散歩した帰りなどにふと耳についたりするのだったが、途中には奥行きの相当深いらしい料亭(りょうてい)の塀(へい)の外に自動車が二三台も止まっていたりして、何か媚(なま)めかしい気分もただよっていた。

※この小説に登場する歯科医院とは山田歯科医院のことで、その子孫は2010年現在本荘で歯科医をしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60158829.html
同じく登場する本屋とスポーツ店は1970年代、大門交差点と大町交差点の丁度中間に向い同士でありました。但し、店名は忘れました。                        


追記)順子と竹久夢二に関しての私のもう一つのブログ記事

何でも鑑定団での夢路と順子の手紙 2010/12/29(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60158829.html