戦後の子供の村社会
缶けり、かくれんぼ、鮒釣り、野山散策、野球等々。低学年や幼児の自転車乗りの練習は、5年生や4年生の役目です。誰かが乗ってきた大人自転車で、低学年の指導をします。
遊びの一番は、何と言っても小学校校庭でテニスボールでの野球です。
バット等は誰も持ってはいなく、その辺にある棒切れがバットです。
バット等は誰も持ってはいなく、その辺にある棒切れがバットです。
赤ん坊の弟を背負って来る者もいます。その場合は、リーダーの指示で、皆、交代で赤ん坊の面倒をみます。
おしめ交換やミルクは、攻撃側の打順が回って来ない者の任務です。
おしめ交換やミルクは、攻撃側の打順が回って来ない者の任務です。
テニスボールがやがて破れて、暫くの間、野球とは疎遠になりました。そこで私は、貯めて60円のテニスボールを買って、低学年のみでの野球を始めました。
つまり、休日は、リーダーには従わずに、低学年の我等は最初から遊ぶ事は決まっていたのです。
つまり、休日は、リーダーには従わずに、低学年の我等は最初から遊ぶ事は決まっていたのです。
或る日、「駄目だ!」と言うのに中学生が強引に割り込んで来て、棒切れのバットを持って打席に立ちました。
彼は思い切り棒切れを振りました。パシュー!と妙な雑音が混じってボールは高々と飛びました。
ボールが破れたのです。彼はしたり顔で言いました。「ざまぁみろ!」
彼は思い切り棒切れを振りました。パシュー!と妙な雑音が混じってボールは高々と飛びました。
ボールが破れたのです。彼はしたり顔で言いました。「ざまぁみろ!」
私は、スカスカになったボールを拾い、即座にその中学生に駆け寄り、その棒切れで彼の足を十回ほど叩きました。泣きながらね。彼は私が見上げる程の背の高さで、小太り。当然、喧嘩して勝てる相手ではありません。
校庭を抜け、あぜ道を駆け、学校の向かいの家に泣きながら逃げ帰って母に泣きつきました。
母は、怒り、全員集合をかけました。野球もしていない子も含めて二十数人程が、我が家の玄関の前に集まりました。私は、母の後ろに。寄らば大樹の陰です。
母は、怒り、全員集合をかけました。野球もしていない子も含めて二十数人程が、我が家の玄関の前に集まりました。私は、母の後ろに。寄らば大樹の陰です。
中学生に母が「子供の遊びに首を突っ込むとは何事だ!」と怒鳴りました。頼もしい母。
中学生が反論。「棒切れで思い切り叩かれた、この通りだ!」と言って脛を見せました。赤くなっている。ざまあ見ろ!と私は得意気。
中学生が反論。「棒切れで思い切り叩かれた、この通りだ!」と言って脛を見せました。赤くなっている。ざまあ見ろ!と私は得意気。
ところが、母の次の言葉が違ったのです。私の方を振り返り「悪いのは、おまえだ!」。唖然! 呆然!
その後、母から申し渡されました。「もう、子供の喧嘩には入らない。こりごり!」。
その後、母から申し渡されました。「もう、子供の喧嘩には入らない。こりごり!」。
処で、中学生が私のボールを破ったのには訳があるのです。リーダーを無視し新らしいボールを持った私の存在は、六年生のリーダーにとっては組織と孤剣に拘る問題。中学生に泣きついたのでした。
子供の村社会でも、こうでしたから、この村全体が、結束が強いと言いましょうか、よそ者を受け付けない土壌でしたね。
写真は、西滝沢小学校の跡地の記念碑の前で。
右から、長兄・姉・次兄・私。2003.10.24