GHQ戦略:戦後朝鮮人による殺人・強姦・強奪
(旧朝鮮文化ーオリジナル語を捨て強者にへつらう)
朝鮮の唯一の文化は「中華の真似ごと」で、朝鮮民族は、自らオリジナル語を捨て、漢字や漢語を入れたから、今は古語・オリジナルの言葉の2割ほどしか残っていない。筑波大学の吉田教授が、朝鮮古語を一生懸命に掘り起こしているが、見つかったのは180語に過ぎない。
15世紀になって、李氏朝鮮の4代目国王・世宗が諺文(ハングル)を作った。漢字ばかりでは教育が普及しないので、日本の仮名を真似て考案したのだ。しかしあまり広まらなかった。漢字・漢語を権威として使っていた支配階級である両班が抵抗したからだ。文字が身分とリンクしていたから識字率は低かった。
(注)つまり韓国語とは、「日本語の<文法>を母とし、シナ人の<音>を父として出来上がった高々500年の歴史しかない混合語」である。
それで福沢諭吉が門下生の井上角五郎を朝鮮に派遣して、ハングル語普及に尽力させた。そして1910年韓国併合後は、朝鮮総督府が小学校を建てながら「普通学校用諺文綴字法」(1912年)という正書法を作ってハングル語を普及させていった。
ハングルは日本人が定着させたのだ。(註1)
(日帝:人種差別なく優秀な人材の登用)
日韓併合以降、能力のある朝鮮人は日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校に入学出来た。そこで多くの朝鮮人が将官となり、日本軍を指揮した。代表的な軍人は洪 思翊(こう しよく、ホン・サイク)中将だ。
洪 思翊は日韓併合前の1887年京畿道安城で生まれ 1905年大韓帝国陸軍無関学校に入ったが 1909年学校閉鎖で国費で日本に留学、陸軍士官学校に引き続き 1923年今日陸軍大学を卒業した。 卒業後日本軍の海外戦闘に投入されて活躍した。
彼は新しい部隊に赴任すると、居並ぶ日本兵の前での初訓示で、常に次のように訓示した。
「自分は、朝鮮人の洪思翊である。
唯今より天皇陛下の御命令により、指揮をとる。
異義のあるものは申し出よ。」
韓国紙『朝鮮平民初日本軍将星 洪私益(洪思翊)』
伏線
ユダヤ系共産主義者・ルーズベルト大統領は原子爆弾を製造し、そして同じくユダヤ系共産主義者・トルーマン大統領が日本にそれを落として日本民族の大虐殺を行なったが、その事実を帳消しにする為に南京大虐殺や朝鮮半島での奴隷化と搾取をでっち上げた。慰安婦の強制連行説も、朝日新聞と同植村記者と共産党員・吉田清治(本名:吉田 雄兎、韓国出身の文筆家)を使ってでっちあげた。
処が
第二次世界大戦の末期、日本やドイツなどをどうするのかが話し合われたのが1943年のカイロ会談である。米国のルーズベルト大統領(ユダヤ系アメリカ人)や英国のチャーチル首相、そして後にシナ大陸から追われる蒋介石などが参加した。
この会談に注目された文言が盛り込まれている。
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
朝鮮半島の奴隷化や搾取などは米国ユダヤが作りだした虚構に過ぎなかった。ユダヤ勢力は原子爆弾を製造し、日本にそれを落として日本民族の大虐殺を行なったが、その事実を帳消しにする為に南京大虐殺や朝鮮半島での奴隷化と搾取をでっち上げたのである。
GHQはこの問題に関しては「日本人が長い間、朝鮮人を奴隷のように扱い、搾取してきたかを分からせる為にも放置すべき」との方針で見て見ぬふりをしていた。
この言葉を妄信して日本人の土地を奪ったのが在日朝鮮人であり、そこにパチンコ屋を立てて儲けたのが在日富裕層の始まりである。
(参考2)
戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると在日朝鮮人は日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、 土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな犯罪を犯しまくった。
警官が駆けつけても手も足もでない。 終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、 「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」 と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。
国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、 そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。
農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。
(引用先)
「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)
<その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
略)
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇~十九三
<昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。
女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四
<昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四
それは、下記のような箇所の記述からわかります。
<朝鮮人同盟からの果たし状だ>P二一二
つまり、在日朝鮮人の恥である辛淑玉から兄ちゃんと呼ばれる宮崎学が「今日では到底信じられない事件は東京だけでなく、山口組の本拠・神戸でも見られた。」と書く山口組が三国人より警察署を守った事件は台湾人ではなく、朝鮮人よりの襲撃で守ったのである。
昭和二十年の十二月には小石川の富坂警察署が約八十人の朝鮮人の暴徒に遊撃され、多数の負傷者を出すという事件があり、その横暴には目にあまるものがあった。上野駅では「コリアン・ポリス」などと腕章をつけた朝鮮人が、勝手に日本人の買い出しを取り締まり、運んでいた物を没収したり、勝手に切符を発行したりした。
また彼らは満員のバスに乗り込んできたりすると、「お前らは負けた奴らだ。席から立て」などと怒鳴り散らしたりして客を立たせることも多々あった。>
P三十七〜三十八
著者の原田氏は戦後、警視庁から進駐米軍への協力というかたちで、英語のできる警察官が三十名ほど出向していた一人である。終戦直後、米軍関係者の治安を提当していた米軍MP(ミリタリー・ポリス=陸軍憲兵)のジープに同乗して、都内をパトロールし、日本人と米軍関係者のかかわる事件を間にたって通訳、調整するのが任務だった。
差別だ、差別だ、と騒いでいる朝鮮人がどのようなことをわが国で戦後やってきたか。一つの事例です。(以後省略)
「在日一世」による戦後、当時の日本人に対して犯した主な事件一覧 は、件数過多のため、ページを改めます。
(註1)
朝鮮の奴隷制度
(註2)
別途稿を改めます。