中国紙が記事にした日中戦争


中国紙が、日中戦争について、中国紙としてはまともな記事を掲載している。

この記事を読む前に19世紀から20世紀の歴史を知れば、この記事と大東亜戦争(太平洋戦争)をよく理解出来るでしょう。

大東亜戦争直前までのこの時代の歴史を大雑把に言えば、欧米列強が争って有色人種の後進国を侵略し、植民地にし、当初は黒人奴隷貿易で儲け(註1)、奴隷が禁止されると、植民地の原住民を酷使し資源を奪取。

(註1)アフリカの黒人たちを奴隷としてアメリカに送り出していたアフリカ西岸ギニア湾の海岸部一帯を莫大な利益を得る黄金海岸”(Gold Coast)とヨーロッパ人が命名

この奴隷刈りや奴隷の様子などは、クンタ・キンテで皆さんご存知ですね。テレビドラマ『ルーツ』(Roots)は、1997年アメリカのテレビ局が、アレックス・ヘイリー原作の小説『ルーツ』を基にし制作したもの。

顕著な例としては、1602年、オランダはインドネシアのジャワに東インド会社を設立。以降、植民地では愚民化政策を採り、インドネシアから巻き上げた収益はオランダの国家予算の三分の一。笑いが止まらなかったでしょうね。(註4)

このオランダによる恐るべき搾取にピリオドを打ったのは、皆さんご存知、1941年の大東亜戦争ですね。

黄色人種の日本の場合はどうであったかというと、

日本をも植民地化するための先兵隊であるカソリックのイエスズ会の宣教師がやってきました(註2)が、その代表例が教科書でも習うフランシスコ・ザビエル

(註2)ポルトガル人の渡来以降、奴隷貿易が始まり、日本人や朝鮮人が奴隷として海外に輸出され、鎌倉期には人買い専門家が全国に市を立てていた。

彼らのやったことは、日本に無い火薬の原料の硝石を武器に、硝石欲しさの戦国大名たちをキリシタンに改宗させ、例えば硝石ひと樽と女子50人と交換し、その女子を奴隷としてヨーロッパで売りさばき(註3)、しこたま儲けるんです。

(註3)魔女狩りのときにはヨーロッパ女性がずい分減ったから、魔女裁判をやったラリンケ判事の魔女審判裁定書の中に、「東洋へは硝石さえ持っていけば、女はいくらでもくれる」と書いています。

ですから、からゆきさんと呼ばれた奴隷の女子(一部男子)が乗船する島原の浜を『白銀海岸』と彼らは称したのです。からゆきさんは白銀の価値があるほど儲かったということですね。

それに気付いた秀吉が、植民地になるのを防ぐためにキリシタン禁止令を出し、キリシタン弾圧を始める訳です。キリシタン禁止を徹底したのが徳川幕府

余談になりますが、本能寺の変が何故に起きたかというと、一説には信長のキリシタン擁護が腰砕けになったので、ポルトガルとオランダの宣教師達は、明智光秀に新式火薬を渡し、見事、信長殺しに成功。

処が信長の遺体が何故見つからなかったというと、当時の最新の強烈な黒色火薬で自分を粉々に吹っ飛ばしたからなんですね。それが遺体が無い理由、なる程。

更に余談を言うと、キリシタン禁止令を出した秀吉の朝鮮出兵は、宣教師がけしかけたものなのですが、処が宣教師達は秀吉に火薬の原料の硝石を供給せず。秀吉の衰退滅亡を図ったんですね。

更に、更に余談を言うと、徳川幕府キリシタン禁止の徹底と鎖国の本当の目的は、戦乱の世を招く火薬の輸入禁止にあったとか。なる程。

     ☆

余談が多くなりましたが、以下、本筋に戻ります。

下記の地図は、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる前のアジアとアフリカの植民地の状況です。大半の国がヨーロッパの植民地となっています。

イメージ 1


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さて、(Record China)レコードチャイナのその記事とは、

日本人が説明した日中戦争(註1)の経緯に「何も言えなくなった」、中国ネットの反応は?
Record China 4月23日(木)

2015年4月21日、中国のインターネット掲示板に、「これを見て、私は日本に何も言えなくなった」と題するスレッドが立ち、ネットユーザーの注目を集めている。

スレッドには、ある日本人が日中戦争の経緯について説明した文章が掲載されている。

その内容は、「日本は中国大陸を自分のものにしようとしていたわけではなく、隣国として当時、中国で頻発していた内戦を止め、欧米の侵略や搾取に遭わない自立した民主的国家をつくる手助けをするためだった。

また、西欧諸国は当時、アジアの国々を次々と植民地化しており、混乱した中国に西欧諸国やソ連が侵入すれば、隣国である日本にも危険が及ぶ。

日本は中国を近代化された強力な国家にして、いずれは日本と共に西欧の植民地主義ソ連の侵略に対抗してくれることを望んでいた」というものだ。(以下のコメント欄は省略)



上記のレコードチャイナの記事の内容の裏付けとして、 以下のユーチューブは、かって私もブログ記事に貼ったものですが、改めてこの記事にも貼りました。


(※)但し、上記のユーチューブの最後に、天皇マッカーサーと白洲のことが述べられているが、あれは歴史捏造のプロパガンダであるNHKGHQ(⇒CIA)の指示により創作したもので、完全なるフィクション。





(※)以下、この記事に付加すること

(註4)オランダの国家予算の三分の一はインドネシアからの搾取でまかなわれた。

日本が解放するまでオランダは330年もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配は続いた

オランダは支配したインドネシアの土地で稲作を営む住民にコーヒー、サトウキビ、藍、茶、肉桂などを強制的に栽培させた。

その結果、食糧を自給できなくなった住民に、オランダは食料を高く売りつけることで借金を負わせ、なけなしの財産・土地まで巻き上げていった。

その搾取の仕方は19世紀に入ってからますます巧妙となり、インドネシアからの収益は実にオランダの国家予算の三分の一を占めるようになった。

このオランダの「強制栽培制度」によって、インドネシアは大飢饉となり、人口の9割が餓死したといわれる。

他方、植民地の女性とは宗主国オランダ人の子供を産ませるためにあるんですね。この合いの子を警察や兵隊として雇用し、植民地を治めていくんです。

これは同時に植民地の女性はオランダ人の男のはけ口にされたんです。なので植民地にされると大抵の場合、合いの子人口は爆発的に増えるんです。

日本の場合は正式な結婚以外での混血は欧米植民地に比べ極端に少ないんです。また父親が朝鮮人で母親が日本人というパターンもあるんです。
大日本帝国時代、併合した朝鮮人も日本人も対等だったんですね。

尚、この裏付けの記事が、2013.12.16付の韓国の新聞記事(韓国語)にありましたので、別途このブログで掲載します。


(註1)日中戦争とは支那事変(しなじへん)のこと。

日本と米国・英国は、真珠湾攻撃で始まる大東亜戦争(太平洋戦争)以前から、中国で戦争をしていたんです。

以下、ウィキペディアより一部を抜粋

1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。

支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争とも呼ばれる。

しかし、日中戦争は1937年から1945年までの戦争を指すことが一般的であるが、「支那事変」は1937年から1941年12月8日までとするのが代表的見解とされており、期間が異なる。(中略)

支那事変は、1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。

8月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈していった。ソ連は空軍志願隊を送り、中華民国側を援護した。(中略)

特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。

当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援。

日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。

1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。(以下省略)



(※)以下、本記事の引用・参考先

人口増加は善政の証という勘違い 朝鮮史 2008-10-12 
(このサイトは6年間も続いている驚異的なスレッドで、主張に対して反論あり、更にそれには反論の反論アリなどで結構学べる。お時間があれば一読を!)

オランダ、東インド会社設立インドネシア植民地支配の開始)

インドネシアにおけるオランダ350年と日本3年半の統治比較

イエズス会士が始めた「奴隷売買」

(※)掲載してある地図画像は、以下のサイトより借用しました。

植民地支配について海外の反応

アフリカの分割