終戦直後からのデフォルト

 
私が小学校四年生で秋田県由利郡下川大内村字及位(のぞき)に住んでいた時のことです。
 
夕闇時に当時の農村地帯としては品の良い、但し疲れ切った様子の奥さんが来て、母と暗闇で長いこと話をしていました。
 
後日、母に尋ねました。
 
終戦直後(1945年 昭和20年秋)、ある村の二番目に裕福な家のこの奥さんが、どうしてもお金を貸して欲しいというので、已むなく二百円を貸したそうです。
 
確か、この奥さんのご主人は戦死し、当時、後家さんでした。
亡くなったご主人は跡取息子でしたから再婚出来なかったようです。
 
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翌年、お金を返しに来た訳ですが、その百円札二枚は旧札で、証紙を貼っていなく、もはや貨幣としては通用しないものだったのです。
 
注)上の百円札の右上に貼ってあるのが証紙。
この時の証紙の貼っていない百円札を母は私に見せてくれました。
 
と言っても、母は、その単なる紙切れとなった札を黙って受け取ったそうです。
 
以後十年間、音沙汰なしの彼女が突然現れ、いっぱい背負ってきた野菜を置いていったのです。我が家の住所を知ったからと言って。
 
その十年間の我が家は、由利郡長岡村から、由利郡大内村滝⇒由利郡直根村(ひたねむら)⇒由利郡西滝沢村⇒由利郡下川大内村と転居したのですから、電話などが普及していない時代、知らなくても不思議ではありませんね。
 
母は、よくぞまあ10年も気にかけて、それに、この野菜だって、売って少しでも生活の足しにできたものをと呟(つぶや)いていました。
 
噂によると女手一つ、まだまだ貧しい生活をしており、ましてや男の子を本荘高校に進学させて本荘に下宿させており、台所は火の車のはず。
この下宿代と授業料を払うだけでも大変だったでしょう。
 
 
終戦直後というと、
 
元地主と言っても、地主ほど戦時国債を強制的に多く買わされていましたから、これは紙くずに。
 
新札を発行する故、旧札は使えなくなると言って持っている旧札は全て貯金させられ、次には、一ヶ月に下ろせる金額は世帯主では300円、個人では一人100円に限定。
 
以後、銀行や郵便局から引き出すお金は原則としては新札でした。
但し、新札の印刷が間に合わなかったから、一時的に旧札に証紙を貼って流通させましたが、1946年(昭和21年)10月末日をもって、この証紙添付の旧札も使用禁止となり、紙くずとなりました。
 
尚、この銀行や郵便局に幾ら預金していようが、世帯主が実際に引き出しが出来た総額は4000円程で、残金は没収されたそうです。
 
ですから、タンス預金はパア。預金から引き出せるお金は地主であろうが小作人であろうが世帯主は毎月300円ですから、地主の方が寧ろ困窮したのです。
 
終戦直後の地主は、『作男』(さくおとこ、農夫)とか、『わかぜ』(若い男の奴隷的下男)とか、『めらし』(若い女性の奴隷的下女)を使っておりましたから、小作人よりも多くのお金を必要としたはずです。
 
更に、農地改革により、1947年(昭和22年)に一町歩(約3000坪)を残し、全ての土地を失いましたから、敗戦により、大困窮したのでした。
 
更に更に、猛烈なインフレ。
 
終戦の前年(昭和19年)の物価を1とすると、終戦の昭和20年は3・2倍、21年は12・6倍、22年は27・2倍、飛んで昭和30年は74倍です。
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もう一つ付加すると、為替相場では、戦前は1ドル2円~5円程度だったものが、1949年(昭和24年)から1ドル360円に固定。(~1971年)
 
これだけでも、100倍弱、円が安値になり、輸入品も高騰しました。
 
これらの終戦直後からの動きは完全なデフォルトでしたね。
お札や預貯金・債権・株券が、いざという時、いかに危ないものか!
無論、借金も!
 
 
(参考)
日本銀行終戦直後を説明した文