私達が知らなければならない日本の近代史
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注)角川新書版@820円
著者(ヘレン・ミアーズ)紹介
1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。
1900年生まれ。1920年から日米が開戦する前まで二度にわたって中国と日本を訪れ、東洋学を研究。戦争中はミシガン大学、ノースウエスタン大学などで日本社会について講義していた。
1946年にGHQ連合国最高司令官総司令部の諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定にたずさわった。1948年「アメリカの鏡・日本」を著す。1989年89歳で没した。
参考2)当時、東南アジアでの唯一の独立国は、昔から王制のある泰国(タイ)だけだった。
以下、文中記事を抜粋
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抜粋1)
「日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明をつくってきたことは記録に明らかだ。近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備し続けた。
日本人を間違いで非難するなら、世界の大国になった近代国家でこうした歴史を誇れる国がほかにあるか、探してみるべきだ。
私たちは日本国民を生来の軍国主義者として非難し、その前提の上に戦後計画を立てている。
しかし、日本国民を生来野蛮で好戦的であるとする証拠はなにもない。
なによりも日本国と日本文明の歴史がそれをはっきり否定しているのだ」
そして外国を侵略しなかったことは事実である。
抜粋2)
日本は現地住民に独立を約束した。それだけでなく、独立を保障する具体的行動を進めていた。
一九三五年にはすでに、満州での治外法権を放棄していたし、一九四〇年には中国に正式に約束し、一九四三年には中国政府に租借地を返している。大戦中日本は、実際に、占領したすべての地域に現地「独立」政府を樹立していった。
たとえぱ、フィリピンは一九四三年十月十四日に「独立」を獲得している。これは私たちが二度目にフィリピンを「解放」する数年前のことである。
ボースはイギリスに宣戦布告し、インド人部隊を編成して日本軍とともにインドヘ進撃しようとしていた。今日、インドの代表的指導者の中には、イギリスの政治的撤退を早めたのは、真に平和を願う指導者の長く実りない平和的手段ではなく、ボースの隠然たる脅威、「忠誠心のない」インド軍、そして日本軍だったという人もいる。
こうして各地で独立を宣言した植民地政権を、私たちは法的擬制と呼んでいる。私たちは現地政府を塊偲と呼んでいる。しかし、フィリピンを例外として、これらの政府に参画した現地の人々が、戦争の最中でさえ、過去のどこの同じような現地政権より権威をもっていたことは事実である。
日本の初期段階の勝利から、再ぴ戦争の潮が押し寄せてくるまでの比較的平和な期間、日本の「保護」のもとに樹立された現地政権は、かなりの安寧秩序を達成していたようである。
もちろん、正確な資料を得るのはむずかしい。日本側の報告(定期刊行物「現代の日本」に掲載されるような)は結構なことをいっているが、もちろん全部は信用できない。
ビルマ政府は、まず土地を農民に配分することから計画に着手した。
ビルマ国立銀行、物資統制委員会を設立し、経済を安定化させ、戦争が国民に与える影響を最小限にとどめようとした。
これらの計画は日本人の利益のために、日本人によって促進一指導)されていた。しかし、これは現地の人々にとっても大事なことだった。彼らの独立が法的擬制であったにしても、かつての植民地としての地位を超える一歩だった。
支配の焦点はヨーロッパからアジアに移っていた。日本がこれらの現地政権を支配していると想定しても(仮に日本が戦争に勝っても、ありそうにない想定〉比較的弱いアジアの国日本は、アジアの視点でみれば、世界で最強の工業国家群である「白人ブロック」ほど「怖く」ないのだ。
もしヨーロッパ諸国とアメリカがアジアの植民地に戦争をもち込まなかったら、現地独立政権は彼らの共栄圏発展のために、喜んで日本に協力しただろう。そう考えられる証拠は十分ある。
一九四三年十一月、大東亜「解放」諸国会議が開かれ、「共同宣言」を採択した。日本のジャーナリズムが「大西洋憲章」になぞらえて「太平洋憲章」と呼んだものである。
太平洋憲章によれば、大東亜共栄圏の目的は西洋の支配から自由を勝ちとり、世界の平和と繁栄のため、文化、経済の両面での発展を図るというものだった。
ある日本の記者はこう説明している。「これまでの統治者が搾取を目的としてこれらの諸国に押しつけた植民地的、半植民地的経済構造は排除されるだろう。そして、遠隔地の領主のために働くのではなく、住民の幸福を図る経済システムに置き換えられるのである」。
太平洋憲章はこういう。「大東亜諸国は世界の国々との友好関係を培い、人種差別撤廃と文化交流の促進を図り、資源を広く世界の利用に供するために、ともに努力し、人類の進歩に貢献するものである」。
私たちは、戦争中日本に協カした現地政権はすべて傀儡であると、いとも簡単にきめつけてきた。確かに自己利益のために、日本に協カしたものもいた。
なぜなら、戦争は日本と現地政府の間ではなく、日本とヨーロッパの異民族支配者の問で戦われていたからである。
フィリピンに関しては、私たちの運営は他の植民地にくらべてはるかに優れた記録を残しているが、アメリカがすでに自由を約束していたそのフィリピンでさえ、単なる傀儡的人物として切って捨てることのできない人々の中に、日本は協力者を得ていたのだ。
たとえば、ケソン大統領の閣僚だったヨルヘ・バルガスである。彼は大統領がアメリカに亡命する前にマニラ市長に任命された人物だが、一九四四年十月十四日、フィリピン独立一周年を祝うために、フィリピン共和国から大使として東京に送られている。バルガス大使はこの記念式典で次のように演説した。
帝国はそのすべての誓約と宣言を誠実に守り、フィリピン国民が憲法を制定し、自らの文化と伝統に調和する国家を樹立する最大の機会を開いたのである。
……大東亜において……日本帝国は、あまりにも激しく、あまりにも不当に圧政暴虐の侵略者として非難されているが、その寛容と自由の実践は世界も驚くであろう。日本は帝国ではあったが、一つの共和国を認め、まさにその樹立に参画した。』
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以上、彼女が書いた本の抜粋で、私達が知らなかった日本の近代史です。