孫が数十人の牧師さん

私の履歴書・88
《ある還暦の牧師さんのこと》

イメージ 1ある日、リュックを背負った三つ年下の石川君(仮称)がアルバイトでやって来ました。

その春に沼津の高校を卒業。大学入試試験に失敗し京都で浪人するためです。

母親は、沼津で屋台の一杯飲み屋をしているのだそうです。

翌春の同志社大学立命館大学入試に失敗。

彼は再びリュックを背負い、全国の旅に出かけました。


一年半後、私が化け猫屋敷に住みだして間もない早朝の五時、突然、部屋の襖が開きました。
「旅から帰って来ました」と言って。

京都駅に早朝着く夜行列車で来たのですね。

それから数ヵ月後、再度、化け猫屋敷にやって来ました。
軽四の箱型バンの中古車を買い、四条大宮でホットドックを売っているとか。

当時、四条大宮で同じスタイルでホットドックを売っているテキヤの車が数台いました。
テキヤを無視して始めたものですから、京都のテキヤの親分の家に引っ立てられました。

「浪人をしている。大学の入学金を稼ぐためで、是非、やらして欲しい」
テキヤの親分も、なかなか粋な男ですね。ショバ代無しで許可したのですから。半殺しせずに。


1970年(S45)の大阪万博が終わってからですかね。
彼は、南区の久世橋西の畑のど真ん中の一軒家を借りて良き伴侶と同居。

京都で一番家賃が安い所だそうで、それに倉庫が欲しかったそうです。
その頃は、彼女と二人、二台の軽四で別々に「今川焼き」を京都の繁華街で売っていました。

或る時、久々に訪れた彼の家の中、つぶあんの20リットル缶をどの部屋にも積み上げていました。
卸元から買占めをしたのです。100万円分だそうです。第一次オイルショック(1973年)直前の事。

それを卸元に買った三倍の値段で売りまして、京都から二人で姿を消しました。



何年後か手紙が来ました。
長野からで牧師をしていると。

更に何年後、別の街から。子供が三人出来たと。

更に何年後、またまた別の街から。子供が七人になったと。

好きだねェ~!と思いきや、実子は三人で、四人は親の無い子を籍に入れて育てているのだそうです。



確か、彼が故郷の沼津の近くに移って子供が九人になった頃から、音信不通になりました。
私も三年前後で転勤を繰り返していましたし、彼の牧師の職業も転勤があったのですからね。


彼を思い出す度、想像する彼を取り巻く子供の数は増えていきましたね。
今、彼のイメージは、数十人の孫に取り囲まれ、ニコニコしている白髪の牧師さんですよ。


イメージ 2
(写真は今の四条大宮交差点。左が阪急四条大宮。右がサウナ大将軍とバスプール。向こうが烏丸四条)


追記)彼の当時の顔は、ザ・フォーク・クルセダーズの「はしだのりひこ」をちょっと細面にしたもの。
良く似ていまして、京都市内でうろうろしていますと「弟さんですか?」と言われていましたね。