それぞれの或る青春

私の履歴書・77
イメージ 2 イメージ 1
  

《或る青春》

大学一回生(一年)の終わりごろ、アルバイトとしてやって来たのが、京都大学文学部四回生の大林君。
つまり、私と同じ年齢という事もあり、度々、夜通し話しあいましたね。

彼は私と同じガレージの方に住んだのですが、ここには、15歳と16歳のお手伝いさん二名がいました。
内、中学を卒業したばかりの15歳の佳子さんは、本当に可愛いかったですよ!

大林君は、この佳子さんや近くの喫茶店のウエイトレスと顔を合わせただけで真っ赤になるのです。
これだから、就職試験の面接で落ちるのは当然ですね。

そしてそして、密かに想いを寄せていたゼミの女子学生に、想いを伝える事無く卒業式に涙したと言う。


その大学を卒業し、暫らく経ってからの春うららの或る日、彼は突然信州に行くと言うのです。

「社会を知らな過ぎた!修行する!」とリュックを背負って。
小さい時から無風の環境で育ちましたが、23歳になって、どうしようもない自己を初めて認識。


彼を見送ってから半年程経ってから、彼から絵葉書が来ました。
信州の修学旅行旅館で、お膳運びや、布団敷きをしているとの由。

更に半年後、今度は、北海道から手紙が来ました。
なんとォ~~~! 夕張炭鉱で石炭堀をしているだと!

写真は、地下数百㍍のトンネルで、ヘルメットをかむり、石炭の粉塵で真っ黒な顔の大林君。

それから一年後、今度は網走から絵葉書が来ました。網走で働いていると。


更に、後日談を述べますと、その後、私は、ここのアルバイトを辞めて、彼とは音信不通となりました。

彼が、東京・文京区のある単行本の大手出版会社に勤務しているのを知ったのは、
陽春の午後、彼がリュックを背負い、はにかみ乍ら京都を離れたあの日から十年後でしたね。

その時、彼の青き放浪の旅は終わっていて、良き伴侶と子供にも恵まれていました。



イメージ 3

《運転免許証》

私も運転免許証を取るために自動車学校に通いました。
前にも述べましたデルタ四条教習所です。

ここに通うには、地理的には近いのですが、交通便が悪いのです。バスの乗り換えなのです。
最初の数回だけは、誰かに送ってもらい、帰りはバスを乗り継いでいました。

以後、自分でマツダ800ccの乗用車か同800ccの小型トラックを運転。
四条通りを一筋下った畑道に車を停めて、そこから徒歩200㍍で教習所へ。

この教習所で宇治方面に住んでいる女性と親しくなりました。同じ時間帯でしたからね。
26歳。落ち着いた知的な、そして、化粧をしない人でした。

丁度、帰りが同じ時間になった時は、近くの喫茶店で色々と四方山話をしていました。
ある日、教習所での仮免の頃、彼女が私に聞くのです。

「何の免許を持っているのですか?」
「何も持ってはいないですよ」
「でも、車でいつも通って来ているでしょう」

彼女は、私が畑の道に車を停める姿を何度も見たようです。
それからが、冷や冷やでしたね。車を停める都度、いつ密告されるかと思うと。


尚、実は、それまでの半年間のほぼ毎日、京都⇔北摂間往復を運転していました。
運転手は、直ぐに半眠状態になる持病で、夢遊病のような蛇行運転。
その助手席では危なくて、ハンドルを取り上げて、私が運転したのです。

お陰様で、教習所からは、成績優秀で表彰状を貰い卒業。

イメージ 4

免許の交付を受けましたのが、5月29日。

それから四日後の出町柳で、一時停止違反で赤紙。(当時、違反は全て赤紙
免停30日の一日講習。

それから一ヵ月後、スピード違反二回にセンターラインオーバー違反一回。
つまり、同時に、免停30日の赤紙を三枚もらいました。

講習は一週間に三回。講習中に如何に上手に眠るかの技法を編み出しました。
その後、一カ月おきに講習を受けるのが習慣になってしまいましたね。

ようやく沈静化したのが、それまでの罰金合計が六万円になってからです。


                          つまらん話しでしたネ