祇園で遊びたいために


《私の進路決定事由》

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本来、入院は一ヶ月で、以後、退院してから静養するようにとの医師の指示。
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退院をしたら、じっとしていられないだろうと自己判断をし、
医師に頼んで退院を二週間延期してもらいました。
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つまり、45日間、入院したのです。
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退院をしてからは、紺の着物に絞りの帯で過ごしていましたが、それも数日だけ。


午後には、背広に着替えて葉山君と連れ立って今出川烏丸の雀荘へ。
以後、お決まりのコース。三条大橋で夕食→先斗町のバー→祇園のクラブへ。



当時の夜の京都の繁華街は、舞妓さんが置屋にご帰還の午後九時半頃から雰囲気ががらりと変わりましたね。特に、祇園東部や乙部は、暗闇みたいなものでしたし、治安も良くはなかったですね。

先斗町祇園の路地を二人で並んで歩きますと、何度、それらしき御仁に肩をぶつけられたか。
葉山君と私は背がほぼ同じ。当時としては大男二人ですからね(今は並みの上)。

葉山君の肩に意識的にバンと当たったそれらしき御仁の肩ははじかれる。
まともに当たって来た御仁は、ドンと腹で跳ね飛ばされて路に転がる。

因縁を付けたかったのでしょうが、毎度すごすごと引き下がっていきましたね。



退院をしてから十日程で、完全に元の姿に戻りました。
午前中は仕事、午後からは琵琶湖競艇に行くか、それとも麻雀。

葉山君のいない日は、一人で七条新町下ルの一杯飲み屋「横居」へ。
又は、同僚のバタヤンやシノヤンと一緒の時は、七条烏丸のリド街か塩小路烏丸東の焼肉屋へ。



遊びこけていましたらあっと言う間に秋になりましたね。具体的記憶に無いほど。

さて、大学受験をどうするか。
こうなったら、祇園で遊びたいから、葉山君のD大に入ろう。

当時の京都の夜の繁華街は、「祇園先斗町はD大」「河原町はR大」「寺町がK大」と暗黙の領域がありましたからね。特に祇園の夜の女性は、D大ファンでした。

でも、またまた受験で何かが起こるかも。


尚、この三大学の夜の構図を後に破壊したのが京都産業大学(創立1965年S40)。
それまで、お金持ちのぼんぼんはD大でしたが、京都産業大学に入りだしたのですから。